「ASLSP/画集夜話――画集について語る|現代美術編」 に続いて行なわれた「ASLSP/画集夜話――画集について語る|絵画編」。USTでライブ中継しましたが、この回のものは録画が残っていません。
前回に引き続き、それぞれの参加者が選出した画集を紹介しながら議論が進められました。
絵画篇は、現代美術の枠組みに限定せず時代もさまざまで、応用美術の画集や魯迅の『阿Q正伝』なども紹介され議題に上がりました。
現代美術篇では、インターネットと画集における美術の受容の差異が中心になって語られましたが、この回ではメディアの変化よりも、作家の画集の活用法や情報の整理術、そして美術史に対する個別的な距離感がどのようなものであるのかを中心にして議論が展開していきました。
2012年7月28日(水)
参加者:石川卓磨、今井俊介、五月女哲平、竹川宣彰、山内崇嗣
ASLSP|アスレスプ(As SLow aS Possible)。ジョン・ケージ1985年の曲。演奏時間が世界一長い曲と言われている(639年かかる)。ASLSPは、状況に左右されない長いスパンの思考と運動神経を身に着けるための、芸術を中心とした議論/活動の場。 ASLSPの旧ブログはこちら→ http://red.ap.teacup.com/aslsp/
2014年3月25日火曜日
第3回 「ASLSP/画集夜話――画集について語る|現代美術編」(2012年7月12日)
ASLSP企画のUST番組「ASLSP/画集夜話――画集について語る|現代美術編」を行ないました。これは、「ASLSP/画集夜話――画集について語る|絵画篇」とセットにした連続企画でした。
ここでは、それぞれの参加者が選出した画集を紹介しながら、画集と自らの制作環境の関係がどのようなものであるか、あるいは画集からSNSなどインターネットメディアにおける画像のアーカイブの変化について、問題提起がなされていきました。
またネット上での作品発表やコミュニティーの形成の可能性から、ホール・アース・カタログなど、現代美術のジャンル的な枠組みを越えて展開がなされました。
2012年7月12日(水)
参加者:池崎拓也、石川卓磨、今井俊介、高嶋晋一、谷口暁彦、早川祐太、森田浩彰 、宮崎直孝、渡辺泰子
第1部
第2部
ここでは、それぞれの参加者が選出した画集を紹介しながら、画集と自らの制作環境の関係がどのようなものであるか、あるいは画集からSNSなどインターネットメディアにおける画像のアーカイブの変化について、問題提起がなされていきました。
またネット上での作品発表やコミュニティーの形成の可能性から、ホール・アース・カタログなど、現代美術のジャンル的な枠組みを越えて展開がなされました。
2012年7月12日(水)
参加者:池崎拓也、石川卓磨、今井俊介、高嶋晋一、谷口暁彦、早川祐太、森田浩彰 、宮崎直孝、渡辺泰子
第1部
第2部
2014年3月24日月曜日
第4回「ASLSP/夜会議」(2011年3月20日)
2011年3月11日に起った東日本大震災と福島第一原発事故を受けて、緊急という形でミーティングを企画しました。
20名ほどの美術関係者が集まり、震災当日の経験や、当時のなかで先行きの見えない状況の中でこれからの留意点、福島第一原発に関する情報、震災/原発にたいする報道メディアのあり方、物資の不足などによって引き起こされた人々の行動の変化など、美術に限定されない切迫したなかでの情報共有を目的にして行なわれました。また、震災によるインフラの麻痺を経験し、制作や支持体などの考え方の反省性、世界の中での日本という場所の観られ方の変化、芸術と震災の関係性など芸術の課題や実感に対する意見が率直な言葉で語られていきました。
このミーティングが震災からわずか9日後に行なわれたということを、現在から振り返るとあの震災直後の時間の重みがどれほどのものであったかを考えさせられます。
20名ほどの美術関係者が集まり、震災当日の経験や、当時のなかで先行きの見えない状況の中でこれからの留意点、福島第一原発に関する情報、震災/原発にたいする報道メディアのあり方、物資の不足などによって引き起こされた人々の行動の変化など、美術に限定されない切迫したなかでの情報共有を目的にして行なわれました。また、震災によるインフラの麻痺を経験し、制作や支持体などの考え方の反省性、世界の中での日本という場所の観られ方の変化、芸術と震災の関係性など芸術の課題や実感に対する意見が率直な言葉で語られていきました。
このミーティングが震災からわずか9日後に行なわれたということを、現在から振り返るとあの震災直後の時間の重みがどれほどのものであったかを考えさせられます。
2014年3月23日日曜日
【再掲】第2回 「ASLSP/画集夜話」のレポート (2008年10月4日)
Vito AcconciとFelix Gonzalez-Torresの画集・映像作品を閲覧しながら議論を進めた「画集夜話」が10月4日に行われました。
Vito Acconciの70年代前半に撮られた映像作品などで示される暴力性や身体性と、Felix Gonzalez-Torresの作品・展示における徹底された態度、その必然性とはそれぞれいったいどのようなものなのかについて中心的に検証していきました。
Acconciは、美術というジャンルや業界が対象ではなく、生活や社会の基盤となっている核の部分・構造の意識化とその変革として、空間や身体性が扱 われている。それに対してFelix Gonzalez-Torresは、美術(ジャンル)やメディア内部に向けられ、作品のプログラミングが行われていることが示されました。つまり、 Acconciの場合、建築など空間における内と外の問題が行為や身体に対しての大きな意味の変容と捉えられるのに対して、Torresの場合は、作品が 美術館の外に展示されようとも、メディアや社会システム、もしくはプライベートな問題の内部に安定して収まっているように戦略的に作られています。
ここから見えてくることは、Acconciの作品(とくに70年代くらい)は、変革・変容の可能性として作品が体現されているのに対して、Torres の作品はペシミスティックであり、変革というよりも確保や潜伏としての可能性に意識を徹底させているという意見が出ました。
そこから、Acconciが建築やパブリック・アートとしてのプロジェクトに転向していくこと、90年代の現代美術に決定的な影響を与えたTorresの限界と可能性が、現在どのように見えているのかについて議論していきました。
最後にこの二人の作品にはっきりと感じられる社会性/政治性に対する明確な対象性(コンセプチュアルな意識)は、作品の完成やクオリティーを決定する基 盤となりえている。それに対して私たちは現在、何を対象とし、何を基準として、作品の完成、クオリティーを決定しているのかについてそれぞれの立場から発言がなされました。
Vito Acconciの70年代前半に撮られた映像作品などで示される暴力性や身体性と、Felix Gonzalez-Torresの作品・展示における徹底された態度、その必然性とはそれぞれいったいどのようなものなのかについて中心的に検証していきました。
Acconciは、美術というジャンルや業界が対象ではなく、生活や社会の基盤となっている核の部分・構造の意識化とその変革として、空間や身体性が扱 われている。それに対してFelix Gonzalez-Torresは、美術(ジャンル)やメディア内部に向けられ、作品のプログラミングが行われていることが示されました。つまり、 Acconciの場合、建築など空間における内と外の問題が行為や身体に対しての大きな意味の変容と捉えられるのに対して、Torresの場合は、作品が 美術館の外に展示されようとも、メディアや社会システム、もしくはプライベートな問題の内部に安定して収まっているように戦略的に作られています。
ここから見えてくることは、Acconciの作品(とくに70年代くらい)は、変革・変容の可能性として作品が体現されているのに対して、Torres の作品はペシミスティックであり、変革というよりも確保や潜伏としての可能性に意識を徹底させているという意見が出ました。
そこから、Acconciが建築やパブリック・アートとしてのプロジェクトに転向していくこと、90年代の現代美術に決定的な影響を与えたTorresの限界と可能性が、現在どのように見えているのかについて議論していきました。
最後にこの二人の作品にはっきりと感じられる社会性/政治性に対する明確な対象性(コンセプチュアルな意識)は、作品の完成やクオリティーを決定する基 盤となりえている。それに対して私たちは現在、何を対象とし、何を基準として、作品の完成、クオリティーを決定しているのかについてそれぞれの立場から発言がなされました。
第1回「 ASLSP/画集夜話」(2008年7月10日)
「画集夜話」とは、テーマに挙げられた作家の画集をできるかぎり集め、それを閲覧しながらその作家について議論をした会のことです。
第1回目のテーマにあげられた作家は、ジャクソン・ポロック。
ジャクソン・ポロックの画面のまとめ方についての議論が一番印象に残っています。
第1回目のテーマにあげられた作家は、ジャクソン・ポロック。
ジャクソン・ポロックの画面のまとめ方についての議論が一番印象に残っています。
【再掲】第3回「ASLSP/夜会議」 の告知(2008年5月25日)
※「第三回 ASLSP/夜会議」の告知を再掲します。
日時 5月25日(日) 18:30~
場所 国立(予定)
※開催場所については参加人数が決定次第、追ってご連絡いたします。
テーマ「解体と再構築」
たとえば制作する者にとって、自らの「主観」から制作をはじめることは、当然の前提であるかのように思われる。(これは美術の場合、より顕著だろう。たと えば建築の場合なら、おそらく、さまざまな外在的/社会的な要請、実際に地面に建ち、人が住めるかどうかといった機能など、その諸条件をクリアすることの 方が、まず目前にある課題であるだろうから。)
しかし、実際に制作しているそのさなかにおいては(特に発表を除外視した場合)、そもそも「主観/客観」という区別すらないのではないか。他人に「それは 主観的だよ」と言われてはじめて、自分のやっていることが他人にとっても通用するものであるかどうかが測れる場合の方が多い。
けれどもし、相対化の作業が、「他にも様々な主観、価値観がある」ということを確認することにすぎないのであれば、そんなものは制作にとって、たいした役 には立たないだろう。さまざまな事例を通して、わたしたちが検討したいのは逆に、いったい何を相対化しえないものと捉えているのかという点にある。
わたしたちは、ルールのわかっているゲームをしているのではなく、ルールを探し、つくり、自らに与えるというゲームをしている。「主観」とはむしろ、あら かじめ確保され保証された自由の領域ではなく、このゲームの過程であらわになる、ある種の不自由さ、限界である。限界の認識である。自分が本当に恐れてい ることに取り組み続けることは、そう容易なことではないとしても。
あなたの名前、あなたの顔、あなたの性別、あなたの職業、あなたの国籍、あなたの使用している言語、あなたの受けた教育、あなたの年齢、あなたの家族、あなたの友人。あなたがこれまで与えられ、そう見なされているところのすべての事柄。
これらの社会的諸関係すべてを取り除いても残るあなたなんて、どこにあるのだろうか。
今回のASLSPでは、美術とは違うジャンルから、芸術について、前回あがったテーマ「解体と再構築」について、討議します。参加者数名が簡単な発表をし、その後全員でディスカッションをする、というかたちをとりたいと思います。よろしくお願い致します。
【参考文献】
●オリバー・サックス
『妻を帽子とまちがえた男』(晶文社、単行本)
『火星の人類学者』(ハヤカワ文庫NF)
映画『レナードの朝』
主演:ロバート・デニーロ、ロビン・ウィリアムズ
監督:ペニー・マーシャル
※原作は(ハヤカワ文庫NF)
●ユクスキュル/クリサート
『生物からみた世界』(岩波文庫)
●グレッグ・イーガン
『祈りの海』(ハヤカワSF)
●R・D・レイン
『引き裂かれた自己』(みすず書房)
『経験の政治学』(みすず書房)
※受付は終了致しました。
【再掲】第2回「ASLSP/夜会議」のレポート 追加」
今回の会で、ある作家の良し悪しをいう際に、「思想があるか/否か」という基準が問題にな
ることが幾度かありました。非常に言及しにくいものですが、「思想とはなにか?」「作家が思想を持つとはいかなることか?」という話題について、ニ次会で
話されたことを中心に、ここで簡単にレポートしておきたいと思います。
まず、「思想」とは断言/断定であり、いわば妄想的な側面、つまり信念(信仰)に関わるものだ、という意見がありました(「イズム」であるからこそ、当然 一面的であることを免れないし、一定の限界を持つ)。それは、相対主義や、批判的な吟味、その他もろもろの分析的な懐疑論からは出てこない生産的な実践に 繋がる観念である、と。
『解きほぐすとき』展の展覧会コンセプトが俎上にあがった際、そのコンセプトは、「破壊/解体」ではなく、「再構築」という側面が含意されているというこ とが論点となりました。それは、現代美術(やポストモダン思想)のいわゆる脱構築的な解体作業が、既存の価値の再考を促すことはあっても、結局のところポ ジティヴな意見、もっといえば新たな「創造」を提示することがないという欠点を乗り越えようとする最近の動向と連関している。そしてそれこそが、「今何か つくろうとする者誰しもが直面している、一番大きな問題ではないか?」という問いが投げかけられました。それは単に「好きなようにつくればよい」というよ うな、素朴な「創造への回帰」ではないはず、だから難しい、と。
またある人は、身近な例として、自分の友人が、警官に不審者扱いされ呼び止められても、断固として自分の名前を明かさなかった、という例をあげました。一 方で、そんなことをすれば面倒なことになるのに決まっているのだから、その行動は愚直すぎる、滑稽だと思う反面、他方でこの頑なな行動はある種の「思想」 がなければできないといえるのではないか? と思ったという話です。
ここで別のある人が提起したのが、じゃあ、カフカは、あるいは、セザンヌは思想があったのか? セザンヌの思想とは何か? それはある種の徹底した懐疑論 ではなかったか? というような疑問でした(あるいはセザンヌの懐疑とデュシャンの懐疑では何が違うのか、と問うてみてもいいかもしれません)。「思想」 とは言い換えれば、ある種の「作家性」のことだけれども、もしかしたら、そうとは置き換えられない部分があるかもしれない。なぜならそれは、主体的に選択 しうるもの、選べるものなのかは疑問であるからだ、と。
それを受けて、「思想」とは絶対にある種のフィクションであることを免れえず、「思想を持つ」とは「嘘をつくこと」、そしてその嘘を基点に世界を組み立て ることに近い。つまりそれは、選択しえないものであっても受け入れて基点にせざるを得ない、それが崩れればすべてが瓦解してしまうような「フィクション」 である。「思想=フィクション」が成立するのも瓦解するのも、他者がいるからだ(たとえ自分自身を欺く場合でも、自分を他者としてみないと無理である)、 という発言もありました。
周囲の状況としては、二昔前の不条理小説の常套だった「犯人が何の根拠もなく殺人を犯す=作家が何の必然性(主題、思想)もなく作品をつくる」という(ア ンチ・イズムな)スタンスの人は今は少なくて、「なんとなく根拠はなくはないんだけど、しかしそれを問いつめてもラチあかないから、とりあえず自分が面白 いと思うものをつくる」というスタンスの人がほとんどである、しかし一方でその「面白さ」の内実は議論されないとのことでした。
それに対し「面白ければいいじゃない」という言葉は、自分の主観が即一般化、社会化されうるということをあてにしているわけで、「面白いはずなんだけど、 この面白さ、他の人にも面白いんだろうか?」あるいは「この面白さは10年後の自分にとっても面白くありうるだろうか?」という観点が入ってないと駄目な んじゃないか、という意見もありました。
「思想」が断言(確信)であるにせよ、他者に向けられたものとしてはじめて成立するものだといえるのではないか? というのがその場でのとりあえずの結論でした。
投稿者: takashima
【再掲】第2回「ASLSP/夜会議」のレポート(2008年3月19日)
3月19日夜、ASLSP・夜会議が国立駅近くにあるお店ロージナ茶房にて行われました。このお店は50年以上の歴史を持っており、ここでは今回のような会や学生たちが集い話し合われる場所として古くから利用されている場所です。店内の雰囲気もよく、リーズナブルで料理もおいしいことから国立・国分寺周辺・界隈の人々にはそれなりに知られている場所です。
今回のテーマは、東京都現代美術館(MOT)で2008年2月9日~4月13日の期間開催されている展覧会[川俣正〔通路〕]と[MOTアニュアル2008 解きほぐすとき]についてでした。
このテーマをめぐって約15人の人々が集い、さまざまな角度から議論されていきました。[MOTアニュアル2008 解きほぐすとき]に出品されている手塚愛子さんにも参加していただけたので、展覧会が作り出される現場や作品制作におけるさまざまな状況や諸問題の話を聞 くこともでき、大変有意義な場となりました。また宗教社会学者の方もいらっしゃいましたので、作品・展示・作家について美術的な観点・言説と社会学的な観 点・言説の双方から言及、議論がなされていったのがとても印象的でした。
会の進行では、まず[川俣正〔通路〕]について話されました。そこでは以下のような事柄が中心的に話されたと思います。
・今日のように社会格差が深刻化し、日本/世界における資本主義の形態が変わりつつある中で、川俣正の路上生活(者)に対する作品や考えはどのように捉えるべきであるか。
・通路とは、迷路などとは違いそれ自体が目的になることはない。AからBへの移行や目的とは何であったのか。また通路が、パッサージュにおける意味でだと したら、川俣が今回作り出しているベニヤのパーテションとコンテンツの関係はどうであったのか。川俣が作り出したものは本当に「通路」といえるのかどう か。
・川俣が美術館で作品発表することの意味とはなにか。
・作品/コンセプトがパブリックなものとして開かれて部分と、アートレスなどからうかがえる閉じている(孤立・疎外的な)部分、またプロジェクト運営時に おける他者(作品の鑑賞者や美術館のスタッフ)とのコミュニケーションあり方をめぐり、総合的な川俣の作家性についての分析と議論。
[MOTアニュアル2008 解きほぐすとき]については、展覧会タイトルや学芸員さんの文章を考察し、個々の作家について検討していく形で議論がなされました。
≪彦坂敏昭≫
・版画的な技法とレイヤーの問題について。
・強烈な赤い色彩の作品とモノクロの作品について。
・展示、サイズ、出品数について。
≪高橋万里子≫
・幼い頃遊んだリカちゃん人形の写真と、母親のポートレート写真とのつながりとはいったいなんであるのか。
・ルフ、リヒター、シュトゥルート、ボルタンスキー、オノデラユキなどの作品との対比、検証。
・写真のサイズについて。
≪金氏徹平≫
・作品で具体物を使用し、それらの事物が持っている固有のコンテクストを剥奪しつなげることについて、PC的な側面と技術的な側面における検証と議論。
・出品されている個々の作品を比較検討し、作家の可能性の中心はどこにあるのかについて。
・作品で作り出されている特徴的な形体感について。
≪手塚愛子≫
・作家がこれまで既製品の布を使用してきたことと、今回おこなった作家自らが発注し作られた布を作品に使用することの違い・展開について。
・装飾における複数の起源について。ゴットフリート・ゼンパーによる幾何学文様の織物技術起源説とアロイス・リーグルの「芸術意志 (Kunstwollen)」(芸術意志は技術にも図像表現にも還元できず、むしろこれらは先行する装飾衝動に由来する。)というような人類史的な起源説 の違いと、手塚の装飾・文様・織物におけるの問題意識の検証。(参照として石岡良治「装飾と反復」)
・作品における文様の使用について。
≪立花文穂≫
・版の使用方法をめぐって。
・美術作家とデザイナーの違いとはなにかについて。宇川直宏や田中偉一郎についての議論もなされる。彼らと立花文穂の相違点/共通点についても話がなされた。
・技術的な問題と主題の関係性について。作家が作品制作/発表に持つべきリスクとは何かについて。
以上が今回話された概要のレポートです。ただこのレポートはあくまで僕個人の視点と記憶からまとめたものです。会は場所を移動したりもして夜の7時から次の日の朝5時まで行われ、話はこのレポートでは触れていない部分、もしくは異なる形でも多く語られました。
今回のテーマは、東京都現代美術館(MOT)で2008年2月9日~4月13日の期間開催されている展覧会[川俣正〔通路〕]と[MOTアニュアル2008 解きほぐすとき]についてでした。
このテーマをめぐって約15人の人々が集い、さまざまな角度から議論されていきました。[MOTアニュアル2008 解きほぐすとき]に出品されている手塚愛子さんにも参加していただけたので、展覧会が作り出される現場や作品制作におけるさまざまな状況や諸問題の話を聞 くこともでき、大変有意義な場となりました。また宗教社会学者の方もいらっしゃいましたので、作品・展示・作家について美術的な観点・言説と社会学的な観 点・言説の双方から言及、議論がなされていったのがとても印象的でした。
会の進行では、まず[川俣正〔通路〕]について話されました。そこでは以下のような事柄が中心的に話されたと思います。
・今日のように社会格差が深刻化し、日本/世界における資本主義の形態が変わりつつある中で、川俣正の路上生活(者)に対する作品や考えはどのように捉えるべきであるか。
・通路とは、迷路などとは違いそれ自体が目的になることはない。AからBへの移行や目的とは何であったのか。また通路が、パッサージュにおける意味でだと したら、川俣が今回作り出しているベニヤのパーテションとコンテンツの関係はどうであったのか。川俣が作り出したものは本当に「通路」といえるのかどう か。
・川俣が美術館で作品発表することの意味とはなにか。
・作品/コンセプトがパブリックなものとして開かれて部分と、アートレスなどからうかがえる閉じている(孤立・疎外的な)部分、またプロジェクト運営時に おける他者(作品の鑑賞者や美術館のスタッフ)とのコミュニケーションあり方をめぐり、総合的な川俣の作家性についての分析と議論。
[MOTアニュアル2008 解きほぐすとき]については、展覧会タイトルや学芸員さんの文章を考察し、個々の作家について検討していく形で議論がなされました。
≪彦坂敏昭≫
・版画的な技法とレイヤーの問題について。
・強烈な赤い色彩の作品とモノクロの作品について。
・展示、サイズ、出品数について。
≪高橋万里子≫
・幼い頃遊んだリカちゃん人形の写真と、母親のポートレート写真とのつながりとはいったいなんであるのか。
・ルフ、リヒター、シュトゥルート、ボルタンスキー、オノデラユキなどの作品との対比、検証。
・写真のサイズについて。
≪金氏徹平≫
・作品で具体物を使用し、それらの事物が持っている固有のコンテクストを剥奪しつなげることについて、PC的な側面と技術的な側面における検証と議論。
・出品されている個々の作品を比較検討し、作家の可能性の中心はどこにあるのかについて。
・作品で作り出されている特徴的な形体感について。
≪手塚愛子≫
・作家がこれまで既製品の布を使用してきたことと、今回おこなった作家自らが発注し作られた布を作品に使用することの違い・展開について。
・装飾における複数の起源について。ゴットフリート・ゼンパーによる幾何学文様の織物技術起源説とアロイス・リーグルの「芸術意志 (Kunstwollen)」(芸術意志は技術にも図像表現にも還元できず、むしろこれらは先行する装飾衝動に由来する。)というような人類史的な起源説 の違いと、手塚の装飾・文様・織物におけるの問題意識の検証。(参照として石岡良治「装飾と反復」)
・作品における文様の使用について。
≪立花文穂≫
・版の使用方法をめぐって。
・美術作家とデザイナーの違いとはなにかについて。宇川直宏や田中偉一郎についての議論もなされる。彼らと立花文穂の相違点/共通点についても話がなされた。
・技術的な問題と主題の関係性について。作家が作品制作/発表に持つべきリスクとは何かについて。
以上が今回話された概要のレポートです。ただこのレポートはあくまで僕個人の視点と記憶からまとめたものです。会は場所を移動したりもして夜の7時から次の日の朝5時まで行われ、話はこのレポートでは触れていない部分、もしくは異なる形でも多く語られました。
【再掲】第1回「ASLSP/夜の会(夜会議)」のレポート (2008年2月5日)
2008年2月5日 第1回ASLSP「夜の会」のレポート
第1回aslsp「夜の会」が、2/3吉祥寺カフェアマルにて開催されました。
カフェアマル、こちらは吉祥寺シアター近くの小ぶりなカフェで、落ち着いたかわいらしい内装と、なにより料理が美味しい!のがポイントです。1人でもゆっくりできそうなカウンターも魅力的でした。
奇しくも何年かぶりの大雪のなか、美術・音楽・デザインに関わる計12人がテーブルを囲みました。
まずは自己紹介を含め、今回参加した動機を語っていきました。
参加者全員に共通しているのが、やはり同世代間でのコミュニケーションの必要性を感じていることでした。普段無意識に行っているものとは違う、意識的に行うことで得られる、豊かな営みとしてのそれを求めた人が会に興味をもったようです。
また今回集まったメンバーの大半が20代後半だったわけですが、私も含め多くの人が今までとは違うインプットを求めているように感じました。
文化に対する前提が異なる人々が集まる有効性とはなにか。ある人が引用した言葉で、とても印象的なものがありました。自立した作家になるために、「孤立を求めて、連帯を恐れず」というものです。それは表現することで社会と関わり、文化を創っていく者として、必要不可欠な自意識なのでしょう。
まさに、自分を知るための積極的なコミュニケーションの場の重要性を意味しているのだと思います。
純粋な表現・制作への欲求と、作品・制作が社会と関係を持つことで立ち上がってくる現実とのギャップ。そのギャップは果たして埋まるものなのか。プロフェッショナルとはなにか。そういった議題を通して、自己の制作に向き合う上でどのような関心事があるのか、話が進みます。
中心的議題になったのが、
・ ドストエフスキー『カラマゾーフの兄弟』新訳を通し、物語の書かれた時代、歴史を知ることの有為性について
・ ヤンソン、エンデ、ル・グウィンのファンタジー、SF作品と、実在の民俗学者の営みや思想の類縁性についてでした。
どちらの議題も、作品を単にフィクションとしてではなく、現実の中で作られたある出来事として捉えているわけですが、改めてそういったことを皆で話し合うことで、より思考に広がりを持てるのだと感じました。
個人的には、話し合うことの大切さをわかってるつもりの自分でも、本当の意味では話し合いに慣れていないことを知ったのは大変な収穫でした。
盛り上がった結果(?)忘れられた会の名前をどうするかという話題も、また次回に語ることになるでしょう。第2回がどんな場になるか、そして集まった人と自分がどんな場を作れるか、期待しつつ、第1回レポートを終わりにします!
ASLSPのブログをリニューアルしました。
「ASLSP(アスレスプ)」(http://red.ap.teacup.com/aslsp/)のブログをリニューアルし、ASLSPの活動記録の記事を、一部再掲するところから始めたいと思います。
今後も変わらずマイペースにイベントを企画していきたいと考えています。
今後も変わらずマイペースにイベントを企画していきたいと考えています。
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